もぐらと星の物語 -5ページ目

うさぎ

離婚をして 

あの人と子供たちは 4月から 一軒の家に住んでいる。

 

5月に子供たちに会いに行った時

その家に 新しい家族 『 うさぎくん 』 がいた。

引っ越した早々 ペットとして うさぎを飼うなんて 大丈夫かな? とは思っていたが 

子供たちの心の教育や新しい発見があるだろうから

子供たちが ニコニコしながら そのうさぎちゃんに 葉っぱを食べさせていたのを

微笑ましく 見ていた。

 

ところが 

9月に その家を訪れた時 うさぎのお家は からっぽだった。

 

長女の澄玲 ( すみれ 5歳 ) に訊いたら

 

  「 今 暑いから 違うおうちに行っているんだよ。 」 と言った。

 

おかしいな と思いながら

僕のお嫁さんだった人 ( あの人 ) に 改めて訊くと

 

  「 2週間前の暑い日に 直射日光が当たる所に 置いたままになってしまって

    死んじゃったんだよね。

    可哀想で 子供達には 涼しい所に預けてある って言ってあるんだ。

    一番上の子は 知っているけどね・・・・ 」

  

 

あの人は また 現実から逃げて うそをつくことを 選んだんだよね。

 

確かに うさぎが死んだことを 子供たちに伝えるのは 辛い。

そして 可哀想かも知れない。

でも それでは うさぎを飼っていた意味は 何もなくなってしまうよ。

うさぎは 無駄死に してしまうよ。

 

生き物は いつか死ぬ ということ。

可愛がっていたものが 死ぬ。

大切なものが いなくなる。

だから たくさん愛情をかけてあげるんだよ。 

ということを 教えなければ 何匹ペットを飼っても 子供たちの心は育たないんじゃないかな?

 

 

そして うそをついてもいい なんて 子供に思わせてはいけない。

逃げてうそをつくことが 更に自分を苦しくする ということを 

あの人は 良く知っているはずだ。

そんな あの人を見ていて 

一番上の子は どうなるだろう。

自分の立場が悪くなると うそをつくんじゃないかな?

確かに ついていい うそもあるよ。

でも その線引きをするのは 自分だよね。

ついつい 甘くなっちゃうよね。

そうしたら 誰にも 信用されなくなるよ。

 

お願い!!

もう 逃げないで・・・


 


 


 

  


絵にならないかも知れないふたりだけれど・・・

 

40歳の男と38歳の女が 東京の とあるターミナル駅の改札の前で

その一日が あともうすこしで 終わるというのに

つないだ手を 離せずにいる。

 

切符を買う ひとときも 惜しむかのように 手をつないでいる。

 

「手を 離せば いいんじゃない?」

 

片手で お財布の中から 取り出しずらそうに小銭を探している僕に きみは 言うけれど

きみのほうも 笑って 手を引いたりはしない。

 

電光掲示板で 僕が乗る電車の時刻を確認したあとも

次に会う予定を だらだらと話す。

 

「もう あの電車には 座れないよ(笑)」

 

「この間 寝過ごしたから 座っちゃダメ~」

 

でも きみの電車の時間も 心配になって やっと 未練深げに手を離す。

 

「じゃあね 気をつけて 帰ってね」

 

「バイバイ」

 

改札を抜けて 振り返ると 

まだ きみは 同じ所に立っていて 小さく手を振る。

僕も 肩ぐらいまで手を上げて 小さく応える。

 

二度目に振り返った時も きみは 手を振ってくれた。

 

恥かしいな と思いながら また 振り向いた時

僕の目は 遠くのほうで それでも 白いきみのシャツを見つけた。











手に・・・

きみの手に 最初に触れたのは

けっして 忘れはしないだろう そう あのライブ

 

『 この手を 離さないで~ ・・・』

 

という 始まりの歌 の直前



 

手をつないだ瞬間 不思議な感覚に襲われた

きみの右手を 下から掴む

でも おかしいかな? と思い 上から握る

ところが 僕の手は きみの手にやわらかく包まれてしまった

 

「この曲の時は 手をつなぐことになっていますから・・・」

 

と お願いしていた事もあって 

僕は 包みこまれた手が 急に恥かしくなり また 下から手を組み直す

僕の4本の指が きみに掴まれているようだった

 

でも 曲が終わり 拍手をした時に 離れた僕の手を

きみから求めることは なかった

 

次に 僕がきみの手を捕まえたのは ライブが終わってから

 

僕に お金を払おうと バッグの中を探るきみの手を

ちょっと 強引に押しとどめ そして 握ってしまった

今度は しっかり 上からつなぐ

でも 僕よりも 15cmも背が低い きみの手は 肉厚で

やさしく しっかりと 僕の手を包む

 

不思議な というのは 最初だけだったけれども

安心感が 僕の手から 心の中に広がる

少しふらふらしている僕を諭すように しっかりと支えている

お互いの手が 吸い付くような ぴったりとすきまもない程だ

ずっと ずっと 手をつないでいても 不自然じゃない そういう感覚


 

僕は 手をつなぐだけで

なにか とても大切なものを 手に入れた気がした



 

 



信仰って なに?

僕が結婚していた時 お嫁さんだった人 ( あの人 )は 

創価学会の会員でした。

 

いや 結婚した時は 「 私は入っていないよ。 」 と言っていたけど

あの人の 父親が入信していたので

おそらく その時も 入っていたのではないかと思います。

 

僕は ここで 創価学会が いいとか 悪いとか 言うつもりはありません。

語るほど 内容は知りません。

 

でも あの人は 僕よりも 信仰の方を大切にしたのでしょう。

僕には そう思えてなりません。

 

ある意味 それは正しいかも知れません。

人間は 結局の所 ひとりなのですし

己の心の平穏を保つには 信仰というものが 必要なのかもしれません。

 

でも それが その信仰というものが そんなに素晴らしいものであるならば

「 自分は入っていない 」 と 嘘をつく必要はないのではないかな。

そして 犯罪行為をしてまで  お金を造ることも 必要ないのではないでしょうか?

以前 『 世の中がよくわからない 』 という記事を書きました。

あの人は 僕の母親の名前を語って 145万円ものローンを組みました。

正確には 僕の母親の名前の40歳の 架空の人物になり替わって です。

そのお金の一部 あるいは 大部分が 財務 と称される お布施になったのではないかと

思います。 

これは あくまで 僕の憶測ですが 

( ここは僕のブログですから 信じるかどうかは 読み手の方に委ねます  )

このことについて あの人が ちゃんとした説明をしていない 出来ないので

おそらく そうではないかと 思います。

三桁の財務 ( 百万円単位の ) というのが 目標として 存在するようですから・・・

 

それでも そうすることで あの人の心の中が穏やかでいられれば

それはそれで 良いことなのかな と思います。

ただ 僕には それが理解できないだけ・・・

だから 離婚したのであって もう 関係のないこと。

僕よりも 大切なものがある ということに ショックだったけれど

それも 今 考えれば 僕の力が 足りなかっただけのこと・・・

 

 

一度 あの人が 泣きながらこう言った。

 

「 わたしが どんな思いで うそをつかなきゃならなかったのか わかる?  」

 

僕には まったく わからない。

自分が正しいと思う事を しているならば うそをつく必要もないし

なによりも 心の中が 落ち着いていられる。

安心していられる。

僕は その手助けとして 信仰があるのだと 思う。

信仰があるから 幸せになれる のではなく

あくまで その人 本人の問題だと思う。



 

 

 

今 あの人が考えている事

『 けんちゃんが 不幸になれば 私が幸わせになれる 』

そう考えるのは 仕方のないこと。

僕は あの人を幸わせにはしてあげられなかった。

それは 紛れもない事実。

だから 僕が不幸になる事で そして 他の誰かと 

あの人が幸わせだと感じてくれたらいいな と思います。

 

でも だからといって 

僕以外の 他人を憎むこと 傷つけることは

ちょっと 違うと思う。

無言電話やいたずら電話などの 犯罪行為をすることで

あの人は 自分の心を穏やかにすることができるのだろうか?

それで 憎むという感情が消えるのだろうか?

 

僕が付き合っていた 智ちゃんは 

「 もし 前のお嫁さんが なにかの事情で 子供たちを育てられなくなったら

  私が面倒見てあげますよ。 」

と言って 優しい気持ちを示してくれた。

その人を どうして傷つけなければならなかったのか

僕には 理解できない。

 

 


願わくば 

あの人の 心の中が いつも 平穏でいられるように

 



 

 


 


 




 


 

 


恨まれる 理由・・・

考え方が 全く違う種類の人 というのが います。
 
それが いいとか悪いとかではなく 
それぞれが そうゆう 思考回路になっているのだと思います。
もちろん ある程度の歩みよりは 可能だとおもうけれども・・・
 
でも 考え方を変える というのは 容易ではないことだと 認識してします。
 
 
九月に みんなでサーカスを見に行きました。
むこうの家に つまり あの人と子供たちが住んでいる家に 1人でいる時間がありました。
その時に おもちゃを修理してやろうと ドライバーを探して 
引出しを開けました。 仏壇? 神棚 の近くの・・・
 
そこに 一枚の紙があり こう 書いてありました。
 
 
『 けんちゃんは 彼女とはうまくいかない。私の所へ 戻ってくる 』
 
 
おそらく あの人は 毎日 神棚にお題目を唱える時に この紙の言葉を
言っていたのでしょう。
 
この言葉を あの人が考えたのか 創価学会の人が考えたのかは わかりません。
 
僕は この紙を見て ぞっとしました。
寒気がしました。
 
 
他人の不幸を願って 自分が幸わせになろう 
という 考え方は 僕には理解できません。
 
 
 
僕だって あの人の不幸を願ってはいません。
幸わせになってくれたらいいな と思っています。
あの人に限らず 今まで付き合ってくれた女性 すべてに思います。
 
例えば 子供にしても あの人が どうしてもと望むから 
僕はあきらめた。
 
 
 
 
今日 11/6の件から 初めて あの人に会って話しをしました。
 
もちろん 自分がやった などと 認めるわけはありません。
 
いろいろ 話しをして 
 
最後に 僕は あの人に 言われました。
 
『 わら人形でも 作りましょうかね・・・ 』
 
『 今の会社に 居られなくしてやるから・・・ 』
 
 
恨まれるのは かまわないが 理由が わからない。
 
どうして そこまで 恨むのか?
 
 
そして あの人は いったい どうしたいのだろう?
 
僕には 理解できない。